« 暴走ぎみのイクメン? | トップページ | 久留米で産まれてよかった! »

2013年1月24日 (木)

本日、私は53才になりました!

Imag1034_2

昭和35年1月24日、私は愛知県名古屋市天白区で、

漫画家・森哲郎(本名・森正衛)の次男坊として生まれた。

その5年ほど前に父は中日新聞社の社員を経て、

文春漫画読本で「大将さん」という連載作品を描き、

漫画家としてデビューを果たし、

既に私の誕生時には数々の雑誌に連載を持つ漫画家に成っていた。

しかし、母が私を身篭ると出産には

「男の子は一人だけで良い」と反対したと聞いている。

私の兄、尚之が2年前に生まれていたが、

もともと父は子供が生まれる行為は誰よりも好きだが、

子供自体は好きではなかった。

跡継ぎの長男だけ居れば充分だと思っていたのであろう。

それだけではなかった。

後年、私には、

「俺が生涯、子供のままで居たい。だから子供は要らない。

父親らしいことは出来ないからな。

ジローとは一番の親友で居よう!」とも語っていた。

所謂、少年心と遊び心を忘れずに漫画を描いて、

子育てや教育面は母に任せて私とも友人的な付き合いを望んでいたのである。

それでも母は子供が好きで父の反対を押し切って私を生む決心をしたのだ。

母自身が家庭的に恵まれて育って居ないことも影響したのだろう。

母の実家は名古屋市内では有数な呉服問屋だったが、

終戦直後、小学校4年生の時に両親は続いて病気で亡くなっていた。

母には兄と弟、姉も二人居たが、その後は問屋も失い、

各自がバラバラに親戚やお寺、施設などを転々と預けられて育った。

ゆえに母は家庭的な飢えもあってか、

家族団欒という満足感を求める中で、

子供という存在を持ちたかったのだと私は思っている。

母は早くからホステスをしたり、着物のコンパニオンをしていたが、

あるパーティにコンパニオンとして参加した時、

父と出会って結婚・・・。

未だ母が16才で父が27才の時であった。

父側の両親は健在でもあり、父にも兄弟姉妹は5人いたが、

その中の次男坊で中日新聞社に勤めていた頃のことだ。

結婚することで母としても生活的に安心感を抱いたことであろう。

「俺はあるお嬢さんと結婚の約束を交わしていた。

だけど、佐加枝(母の名)の生い立ちを聞いたら可哀相に思って、

ウチで養女にしようという思いも・・・」と、

後に父は結婚の理由を私に話していたが、

実際には母は父の両親側から嫁苛め的な事をされていたようでもある。

それは父の兄弟姉妹の中でも両親側からすれば、

一番の稼ぎ頭として夢を託していたが、

その夢を実現するためにも母に対して、

厳しく接したのは何となく分からなくもない。

何しろ、父は漫画は上手くても料理や自身の身の回りのことは何も出来なかった。

母は施設でも料理や洋裁など教えられてきている。

しかも結婚前は父の母が全て身の回りのことをしていた。

それを今度は母がやらなくてはならなかったので、

母的には苛めと感じていたことでもあろう。

父は結婚時の年に新聞社を退社し、

漫画家として順調に軌道に乗り始めた頃でもあった。

次々と父は色々な雑誌に連載を持ちながら母が18才の時に私の兄を産んでいた。

父の両親としても跡継ぎの子供が出来て喜んだことは言うまでもない。

昭和34年、母は20才の時に私を妊娠するが喜んでいられる状況ではなかった。

その年の9月に伊勢湾台風という戦後空前な猛威の台風が東海地方を襲っていたからだ。

台風で木曽川や海岸の堤防は決壊し、

流水では五千人以上の死亡者や行方不明者が出るほど悲惨な出来事だった。

だが、台風時には父は出張中で自宅に不在でもあり、

妊娠中の母は泥流で自宅が崩壊する寸前、

2才に成る私の兄を背に外へ飛び出すと、

救助隊のボートまで数百メートルも泳いで避難したという。

それが原因で私は早産してしまった。

本来、明くる年の3月に出産の予定が急変し、

1月に生まれてしまい、

体重も1900グラムという未熟児で、

医者さえ「お母さん、この子は育ちません!」と諦めを諭したとも聞いている。

未だ当時は今ほどに医学も発達していなかったからであろう。

病弱で泣いてばかりいる私を母は一晩中編み物をしながら、

部屋に吊るしたハンモックで揺すぶって寝かしつけ、

育てるのに必死になっていたそうだ。

母は言わば戦争孤児みたいな生い立ちでもあり、

そうした苦労の体験からか、

人並み以上に負けず嫌いな性分で、

医者の言葉など全く信じずに意地になったのだろう。

そのお陰で私は生きている。

しかも人並み以上に元気な身体なのは、

全て母の意地の成果だと言えるが、

何ひとつ親孝行をすることの無いまま平成14年に心筋梗塞で亡くなってしまった・・・。


私が誕生すると家族共々で上京し、

都内板橋区常盤台の二階建ての一軒家に名古屋から移り住み、

二年後に父は手塚治虫氏らと長編漫画研究会を結成した。

自宅には学生服姿で愛知県蒲郡市から父を頼って上京し、

弟子入りした高信太郎とお手伝いさんを二人ほど住ませていたが、

その頃の父の収入は現在の金額にすると月に一千万円近かったらしい。

銀座新橋界隈でも俳優の勝新太郎氏と並ぶほど豪遊をしては、

芸者やホステスを自宅に連れ帰り、

酔っ払いながらドンチャン騒ぎをしていたことを私もうつろ気に覚えている。

自宅の一階大広間には

常に遊び人としても知られる落語家や映画俳優さんなどが、

ゴロゴロと溜まっては父と一緒に酒と痲雀で明け暮れていた。

そうした遊びが好きなのと同様に父は漫画を描くことも好きで、

よく離れの一室に1人で人を寄せ付けない気迫を背に感じさせながら、

漫画を描いていたものだった・・・。

現在、私は物書きの世界に入り、

7年が過ぎた。

この間に私は4冊の本を出し、

何かしらの雑誌で連載を持ってはきている。

暴力団組織も除籍という形で離脱を許され、

19才年下の嫁を持ち、

娘も産まれて3才になる。

仕事的には、

まだまだの段階だが、

両親は他界しているけど、

母譲りの負けず嫌いと、

父の遊び人的な性分ながらも、

やる時はやるという所を受け継いだのか、

政治活動も進めたが、

決して父を超えられる人間には成れないかも知れない。

だが、私は私なりに、

物を書き続け、

マスコミ不況なんてものは、

子育てと仕事を何とか両立して、

クソ意地で乗り切ってみせる。

それが53才に成った私の新たな決意だと思って頂きたい。

色々な方々から、

「誕生日おめでとう」という言葉を頂き、

本当に感謝申し上げます!!!

Img_20130119_2244001

(娘、ノアちゃん・・・、台風などに襲われても命掛けでパパとママは護るからね!)




|

« 暴走ぎみのイクメン? | トップページ | 久留米で産まれてよかった! »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 暴走ぎみのイクメン? | トップページ | 久留米で産まれてよかった! »